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フランツ・リストの生涯

 フランツ・リストの生涯は作品と密接に結びついている。だから、伝記的に年代をおっていくだけでは不十分である。そこで、主な作品の書かれた時期と初演時などもふまえて、彼の様々な人生の局面を追っていきたい。



"List" から "Liszt" へ

  • 1811年10月22日、フランツ・リストはハンガリーのライディングに生まれた。
    祖父のゲオルグ・アーダム・リストは元々ドイツ人でスペルは "List" であったが、これはハンガリーでは「リシュト」とよばれるため"Z"の字を入れて "Liszt" (リスト)となった。ちなみに"liszt"とはハンガリー語で「小麦粉」を意味する。
     リストの父はドイツ系、母はオーストリア人であったため、リスト自身はハンガリー人でありながら生涯一言もハンガリー語を話せなかった。

  • 4〜5歳から父にピアノを習い始め、10才までに近郊で公開演奏会を開いて名を馳せる。

  • 1822年、ウィーンに移住し、カール・ツェルニーの下で1年半修業する。
    (編者注)
    カール・ツェルニー(1791-1857)は「ツェルニー30番」などの練習曲で有名であるが、ソナタなどの作品もあり日本では手に入らない。彼はベートーヴェンの弟子であるから、リストはその孫弟子ということになる。ツェルニーの功績は現在のピアノの運指法を確立したことにもあって、現在出版されているバッハの平均律曲集は彼の編纂した版を元につくられており、それ以前とは運指が違うため、オリジナルに忠実なバロック研究家はその点を指摘している。

  • 1823年、4月ベートーヴェンの前で演奏し祝福を受ける。その頃、サリエリから音楽理論と総譜読みを学ぶ。5月ブタペストにデビュー。
    (編者注)
    アントニオ・サリエリ(1750-1825)は映画「アマデウス」で精神病院にて不遇な晩年を過ごしたかのように描かれているが、事実ではなく、全くのデタラメである!彼はリストに限らずベートーヴェンにも作曲指導し、亡くなるまで後進の育成に勤しんだ。

  • 1824年、3月パリのオペラ劇場でデビュー。

    この成功によりパリ音楽会の話題を呼び、貴族達のサロンの寵児となる。
    6月ロンドンにデビュー、特にオペラの主題による即興演奏が評判となる。

    (編者注)
    オペラの主題と変奏による即興演奏はリスト以前から行われていたものの、技巧を凝らして自由自在にあやつるリストの演奏はさすがで、後に多くのパラフレーズとして出版されている。彼のそうしたパラフレーズの数々に関して、詳しくはリスト作品集[パラフレーズ編]を参照されたい。

     

  • 1827年、8月父アーダム死亡。リストは母親をパリに呼び、演奏会とピアノ教授で活動開始、伯爵令嬢カロリーヌ・サンクリックが弟子入りし、恋に落ちるが、伯爵はそれを知り、身分の違いから稽古を断わったため、リストは精神的ショックを受け失踪する。しかし、翌年ベートーヴェンの「皇帝」をパリで初演しカムバックする。

  • 1830年、7月、パリで「7月革命」勃発。彼は革命交響曲を作ろうとスケッチをとるが完成せず、後の作品の主題に使われる。12月、ベルリオーズ「幻想交響曲」の初演を聴きベルリオーズとの親交が始まる。4年後、リストはピアノ編曲版を出版。
    (編者注)
    エクトール・ベルリオーズ(1803-1869)が「幻想交響曲」で打ち出した管弦楽法はベートーヴェンよりはるかに巨大で交響曲といっても決してソナタ形式ではない。「ある芸術家の生涯における物語」という標題と各楽章に「固定観念」が設定されたこの音楽は、聴衆に曲のイメージを予め伝えておく、いわゆるリストが提唱した「標題音楽」の先駆者であり、のちのリストの「交響詩」にも大いに影響を与えている。

  • 1831年、5月バイオリンの鬼才ニコロ・パガニーニの演奏を聴き感動し、「私はピアノのパガニーニになるか、もしくは気狂いになるのだ!」と絶叫し、猛練習に打ち込み技術を磨き直した。またこのころフレデリック・ショパンの演奏にふれる。
    (編者注)
    リストがパガニーニ(1782-1840)から受けた衝撃は大きく、この年から翌年にかけてパガニーニのバイオリン協奏曲第2番終楽章「鐘のロンド」による幻想曲を作曲、これが「パガニーニの<ラ・カンパネラ>による華麗な大幻想曲」で、さらにパガニーニの無伴奏バイオリンのための<カプリース(奇想曲)>の中から5曲を選んでピアノ用に改作し、合わせて6曲を「パガニーニによる超絶技巧練習曲」として出版した。これらはパガニーニの超人的バイオリン技巧を、リストがピアノの世界で挑戦した傑作である。

  • 1833年、ベルリオーズの紹介でマリー・ダグー伯爵夫人と知り合う。リストより6歳年上であったが、パリ社交界の中心的女性だった。その後文通を通じて恋愛関係になり、それが噂となってパリには居づらくなり、2年後1年半ジュネーブに隠遁する。
    (右写真)
    マリー・ダグー伯爵夫人(1805-1876)はヨーロッパの各国語に通じ、ピアノを弾き、文学にも精通した才女だった。シャルル・ダグー伯爵夫人であったが、年が違いすぎる上に貴族の家柄を重んじた結婚であり、夫の職務上別居が多かった。彼女は家族と煩わしい社交界を捨て、ジュネーブのリストの許に走った。

  • 1836年、ジュネーブ音楽院のピアノ教授を無報酬で引き受ける(さすがぁ〜!)
     10月にパリに戻り、再び芸術家や貴族の集まる音楽と社交の中心になった。ここで、ショパンは女性文学家ジョルジュ・サンドと知り合う。リストとの交友もさかんになる。
    (編者注)
    フレデリック・ショパン(1810-1849)とリストはポーランドとハンガリー出身のピアニスト同士という、いわばライバルの立場にあったが、2人の関係は親密で、リストはショパンの死後もショパンの作品を好んで演奏し、ショパンは生前彼の最高傑作の一つ「練習曲作品10」の12曲をリストに、「練習曲作品25」の12曲をリストの内縁の妻、ダグー夫人に捧げている

  • 1837年、8月リストとダグー夫人は、イタリアのコモ湖畔に休養、名作「ダンテを読みて」を同湖畔のメディチ家で作曲。
    12月24日次女コージマ生まれる。
    (写真右)
    リストとダグー夫人との間には3人の子供が生まれた。
    長女 ブランディーネ(1835-1862)
    次女 コージマ・フランチェスカ(1837-1930)
    長男 ダニエル・ハインリッヒ(1839-1859)

    長男も長女もいずれも短命であったが、次女コージマフォン・ビューロー夫人から後にワーグナーの妻になり、バイロイト音楽祭を継承し、長寿を全うした。


  • 1838年、4月ブタペスト大水害救済演奏会をウィーンで開き巨額の収益を上げる。その後もリストは多忙な演奏旅行が続き、ダグー夫人との破局がはじまる。

  • 1839年、12月ハンガリー大旅行、ブタペストでは凱旋した音楽英雄として大歓迎をうける。中旬、マリーダグー夫人との破局、6年後に正式に別れてしまう。リストは8年間の演奏旅行。

  • 1847年、2月キエフ第1回の演奏会で、ヴィットゲンシュタイン侯爵夫人に会う。夫人はリストのピアノに感激し、貧民救済資金として百ルーブルを献金。リストは彼女を訪ねてお礼を述べ、双方互いに心奪われて恋愛関係に入る。
    7月、オデッサにて大作「ダンテ交響曲」「詩的で宗教的な調べ」等を作曲。 9月公爵夫人はリストが演奏旅行をやめて後世に残る彼の交響詩の創作に専念する事を進言し、エリーザベトグラードにおける演奏会を最後に、公開ピアノ演奏会をやめる。

    (写真左)
    カロリーネ・フォン・サイン=ヴィットゲンシュタイン侯爵夫人(1819-1887)との恋愛に関しては映画「我が恋は終わりぬ」で詳しく描かれている。夫人は知性的で敬虔なカトリックの信仰に徹していた。リストの後半生に深い関係を持って、人生の進路を転換させる事になる。特にリストに演奏旅行をやめて作曲活動に専念する様にアドバイスしたのは、正しいことだった。
     彼等は長年かかって、結婚を目ざしてあらゆる努力を続けるが、結局は達成できなかった。こうして、リストの芸術的に最も豊潤したワイマール時代がはじまる。

  • 1848年、ワイマールの宮廷楽団の常任楽長に就任。オペラなどの指揮のためにワイマールに滞在する事になる。侯爵夫人は夫の許を去り、ワイマールのアルテンブルグ宮殿を入手して入居、リストも同居するがロシア皇帝から結婚は許されていない。
    アルテンブルグはやがてリストを取り巻いてワーグナー、ベルリオーズ、ブラームス、クララ・シューマンなどの音楽家、文人、詩人、学者、政治家が集まるヨーロッパ音楽の中心地となった。

  • 1849年、リストはワイマール宮廷楽団を大編成にし、ヨーロッパ一の名手を揃えて改善をはかる。5月にワーグナーの歌劇「タンホイザー」を上演するが、その頃ドレスデンの革命で指名手配となったワーグナーの逃亡を手助けする。

  • 1850年、8月28日ワーグナーの歌劇「ローエングリン」をワイマールにて世界初演する。
    リストのワイマール定住により、ハンス・フォン・ビューローをはじめ400人以上が集まる。

    (写真左)
    ハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)は、リストの高弟で、1857年、娘のコージマと結婚する。彼はリストの紹介でウィーンにデビューし、ハンガリーでは「リストの再来」「リストの後継者」と絶賛された。またリストのピアノ作品も多数初演をまかされている。後にワーグナーの弟子となり、妻を寝取られるが、同時に「トリスタンとイゾルデ」を初演指揮し、指揮者としては、ニキシュ→フルトヴェングラー→カラヤン→アバドへと続くベルリン・フィル・ハーモニー管弦楽団の初代常任指揮者であった。

  • 1852年、2月17日ワイマール宮廷演奏会で自作の「ピアノ協奏曲第1番」をベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノで初演。

  • 1854年、2月23日ワイマール宮廷管弦楽団募金演奏会で交響詩「前奏曲(レ・プレリュード)」の初演を指揮。

  • 1857年、1月22日、ベルリンにてハンス・フォン・ビューローの演奏で「ピアノソナタロ短調」初演。大反響をまきおこす。
    1月7日、ワイマールで自作の「ピアノ協奏曲第2番」、 11月7日ドレスデンで「ダンテ交響曲」を、12月5日ワイマールで「ファウスト交響曲」の初演を指揮。

  • 1860年、リストと侯爵夫人は結婚許可をとるために、ヴァチカンのローマ法王に願い出る。しかし2回の枢機卿会議では否決される。

  • 1861年、第3回枢機卿会議で条件付きの結婚許可が出たので、式場と日取りをリストの50才の誕生日と決めて、すべての準備を進めていた。
    10月20日、リストはワイマールに別れを告げてローマに着いた。ところがヴァチカンからの特使が来て、結婚式を一時延期して、ロシアのヴィットゲンシュタイン侯爵からの書状を至急提出するように命じられた。しかしそれらの訴訟記録を取り寄せるには大金がかかり、しかも役に立つのか不明だったため、侯爵夫人の期待は完全にくじけて、ローマに留まって修道院に入って信仰の道に身を捧げる決心をする。
    リスト俗世を断って、修道院に入り、所定の修道日課を勤めながら、作曲を続けていこうと思った。

  • 1864年、7月一応の修道を終えて、まだ神父の身分ではないが、この時点から神父の黒衣をまとい、鍔の広い帽子をかぶり、死ぬまで公式の宴会や演奏会を神父姿で通す事になる。
    リストの創作は、形式も内容も一変し、聖書の伝説、奇蹟、彼の交響詩などに限られる。オラトリオ「聖エリザベスの伝説」「聖フランシスの二つの伝説」をはじめ、「エステ荘の噴水」の中間部にはヨハネ復員書の一説が、歌となって現れてくる。

  • 1865年、3月15日オランダで「死の舞踏」ハンス・フォン・ビューローのピアノで初演。8月15日ブタペストで「聖エリザベスの伝説」初演、23日再演。

  • 1869年、1月12日「ローマでは落ち着いて作曲できないし、演奏する機会もない。自分を必要としているのはワイマールでありドイツだ。」と考え、ワイマール大公の切望もあり、リストはローマを引き払ってワイマールに戻る。
    今度帰って住んだ家は、元宮廷庭師の空家で、現在のリスト博物館である。二階には演奏会もできるサロンがあり、コンサート用グランドピアノが二台並んでいた。

  • 1870年、5月ワイマールでは10年ぶりに大演奏会が催され、ワーグナーの「タンホイザー」「さまよえるオランダ人」「マイスタジンガー」が上演され、諸外国からの音楽家も集まり、ロシア皇帝も臨席した。
    8月25日、リストの娘コージマはフォン・ビューローの妻でありながらワーグナーと結婚。リストは憤慨し、娘とワーグナーと絶交状態になる。

    (写真左)
    コージマと結婚したリヒャルト・ワーグナー(1813-1883)は、ライプチヒの生まれでプロテスタントだったので、リストのように結婚も離婚もカトリックのような制約はなかった。ワーグナーの大パトロン、バイエルン国王ルードイッヒ2世が、フォン・ビューローをミュンヘンの楽長に任命し、彼は妻コージマと二人の子供を連れてミュンヘンに移り住んだ。彼女とワーグナーとの関係はその前から始まっており、やがて4人の子供を連れ出し、トリープシェンのワーグナーの家に居ついてしまった。リストはこの時の心境を「ワーグナーの天才は、それを遂行するためにはコージマの愛が必要だったのでしょう。」とヴィットゲンシュタイン侯爵夫人に伝えている。

  • 1871年、リスト新設のブタペスト音楽院の院長に国会の決議で任命される。
    リスト邸では随時「日曜演奏会」が催され、宮廷関係の貴族達と弟子達で、リストのピアノ演奏を聴く会だった。

  • 1872年、5月バイロイト音楽祭の祭典劇の定礎式に、ワーグナーから招待を受けるが、リストは出席しなかった。しかし、熱心なワーグナーの誘いに応じ、10月15日から1週間バイロイトを訪問し、双方完全に和解する。

  • 1876年、第1回バイロイト音楽祭に列席。マリー・ダグ伯爵夫人死去。

  • 1882年、第2回バイロイト音楽祭に列席し、「パルジファル」を鑑賞した後、ワーグナーの招きでベネチアのワーグナー一家を訪ねる。孫達と最後の家庭的なくつろぎを満喫する。

  • 1883年、2月ベネチアでワーグナー心臓発作で死去(69歳)。遺体はバイロイトに輸送されたが、あまりに痛々しくコージマはリストを葬儀に呼ばなかった。リストはワイマールで追悼演奏会を指揮した。(もしくはワーグナー生誕70周年記念演奏会)

  • 1884年、この年から自作の演奏と各地で弟子達を教育するための旅行が増える。高齢にもかかわらず多忙な毎日が続き、体力と視力が低下する。

  • 1886年、リストはワーグナー亡き後もバイロイト音楽祭を支援する立場にあって、7月21日、病身のままバイロイト入りし、コージマが演出する「パルジファル」「トリスタン」を観た後、容態が悪化し、7月31日現地で死去(75歳)。
    遺体はバイロイトに埋葬される。

 


参 考 文 献
(敬称略)
  • 属 啓成 著「リスト生涯編」音楽之友社

  • エベレット・ヘルム 著 野本由起夫 訳「リスト」(大作曲家シリーズ12)
    音楽之友社

  • ピエロ・ラッタリーノ 著 黒木弘子 訳 「大作曲家の世界4-ロマン派の巨匠」
    音楽之友社

[ピアノ作品編]
[管弦楽作品編]
[パラフレーズ編]


[音楽分析]


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